保護猫を貰い受けて暮らす猫日記


by komitsuko2006

命が尊いといいながら

どんな人の命尊い
どんな生き物の命も尊い

このフレーズに真っ向から反論できる人間はあまりいないでしょう


しかし、現実には


え~、野良猫なんか死んだってかまわないじゃない?
だって生ゴミあさって迷惑だし、庭にウンチやおしっこするのよ

野良犬が近所をうろついてて、怖いのよ
子供がかまれたらどうしてくれるのよ
早く保健所が処分してくれればいいのに



自分の手を汚さずに、他者の死を願う
自分を善良と信じて疑わない人間が、それを権利と妄信している限り
捨てられた子猫も、野良として生まれた子犬も
生きるための手段をすべて奪われて、冷たくなって行くのです

彼らは生きるために生まれてきたのに
生きる術を、少ない選択肢の中から選び取って生きているのに
善良たる殺意が、彼らを追い詰め殺すのです

では、殺すことを排除することを止めればいいのか?

保健所で殺処分するのを止めればいいのか?

止めろ止めろというのは簡単だし、そんなもの政治の圧力があれば
停止させることも可能でしょう
けれど、善良(!)な住民が、彼らの存在を認めない限り
保健所が殺さなくても、誰かが彼らを殺してしまう
外歩きする猫の春の声がたまらなく嫌いな人が
排泄する猫を許せない人が
思い余って、庭に罠をしかける・・・猫は大怪我をしてしまう
けれど、動物虐待で訴えたところで、飼い猫でない子の損害を
裁判所は認めないでしょう
認めたところで、どれだけの罪になると言うのか
野良が激減した現在ですら、そうなのに
それが数十倍に膨れ上がったとしたら、結果、人間がとる行動は簡単に予想がつきます

また殺せ、殺処分を止めたのは間違いだ

もしくは行政が、「各人で個別に処分を御願いします」


そうなることでしょう
今よりもっと状況は悪くなってしまうかもしれません


その対策として、避妊手術をあげる人がいます
これは暴力ではなく共生のための苦渋の選択だと

そうかも知れません
いずれにしろ、生命のありかたを歪めなければ
共存できない所まで来てしまっています

しかし、一匹の子猫子犬も殺さずに、すべてに避妊手術を施すとしたら
その予算はどのくらいに登るでしょうか?
行政の予算を振り向けて、では、何を削るのでしょう?
善意の寄付でまかなうのでしょうか?
それとも、動物病院にタダ働きをさせられるような法律を作るのでしょうか?
それでこの条件が満たされるとはとても思えません


またシェルターで保護し、飼い主をつのればいいと思う人もいるでしょう
しかし私は考えるだけで恐ろしい
引き取ってくれさえすればいい人が、どんどん持ち込んで
満杯になったシェルター・・・
そのために無尽蔵に予算を組むことを、国民がどこまで容認できるのか
予算が足りない施設で、何が行われ、何が行われないのか
数ある凄惨な事件を思い起こしてください
夢見がちな善意が、どれほど残酷な結果を生むか

結局破綻する結果にならないように、どのような対策を考えているのか
そこまで話ができる人には、まだ出会っていません




これらは、明らかな生命の選別です
今いる子を保護し、避妊して、共に生きるしかない
そう言う対処が、一般人にできる限界でもあるのは、否定しません


年寄りや子供が、野良犬に噛まれて怪我をしたり死亡する・・・犬は捕獲され殺処分されます
野良でなくとも、飼い犬でも、飼い主に責任が課せられ、犬は殺されます
逆に、自分の犬猫が来客や通行人に損害を与えたとしても
まるで関知しない、むしろ相手を悪く思うような、歪んだペット至上症候群のような
(ただの人間嫌いか?)人々もいます

すべては、人間の損害が第一だからなのです
決して、主体が動物になることはありません
主体は人間であり、人間の考え方だけが優先され、
動物はそれに翻弄され続けます
彼らが彼ら自身を守ることも、訴えかけることもできはしないのです
彼らのために、と言いながら、彼らの本当の声を聞く人がどれくらいいるでしょうか

そして、これは人間の作る法治国家であるかぎり、どうにも揺るぎません



まだ、野良も飼い猫もあまり差がなかった時代
命の線引きすらあいまいであったあの時代に
端から死に行く命のそばで、それでもたゆまず逞しく生まれ出る、
その循環の維持バランスが途絶えた今
なにをもって、重畳とするのかを明確にしない運動に
私は諸手をあげて賛同できないでいます

いったい結果、なにを求めているのか判然としない活動に
本当に意味があるのでしょうか?

存在しえないシャングリラを餌に、何かを妄信したい人間のエゴを満たすためか?

目の前の命をただ救いたい
それは、見えない命は仕方がないけどあきらめよう
そう言うことになります

しないよりはいい

は結局、目にする人の感情の収まりのつきかたにすぎません
そんな活動の主体は、あくまでも人間の気持ちがそこそこ収まりがつくかどうかなのです

人間の命も、生き物の命も、すべてを救うことなどできません
できると信じているとしたら、薬で幸福な場所へ行ってる中毒患者と同じです



善良を装う人間が、世間体から反論できないでいる「命の尊さ」
それは、方便でしかないのです
他者の尊厳は、自己の尊厳の背反にすぎません
自分の命が大事だから、他人の命も貴ばないと、自分に跳ね返る
だから、命は大事だと言うけれど、本当に見知らぬ相手の尊厳と
今、窮している自分の尊厳を同等に考える人がいるでしょうか?

ましてや、不要と思う命に対して、人間はいかにも残酷です
暴走族なんか、その場でみんな銃殺すればいいのよ
凶悪な殺人犯はみんな死刑にしてもらわなきゃ

歴史の中で、これが別人種、別の国民であった事実は枚挙にいとまがありません
人間は、自分の都合でどうにでも考えを変える生き物なのです

善良な市民は皆、自分の手を汚さずに、不都合な他者の死を願うものです
最大多数の最大幸福が民主主義の理念であるかぎり
人間に害をなすモノはすべて排除対象です
何故、犬が猫が飼われてきたのか、その歴史を知らない人はいないと思いますが
今、その役目を追われた存在が、ただ愛玩物としてのみ存在を許される
この状態そのものが、すべての元凶だと、何故気がつかないのでしょう

そして、この状況を誰が打破できると言うのか、です
日本では、今、ネズミの大発生に悩まされ、伝染病で人間が大量死する事を望みません
労働力としての犬、狼などの野生動物の防御
そんな役目を負わせるための存在を必要とする人も少ないでしょう
営々と何千年も築いてきた共生関係は、とっくに破壊されたのです

いると癒される

ただこれだけの役目を負わされたペットたちが
人間に選別され、生殺与奪をゆだねねばならない
この理不尽さを、どう考えるのか、です


愛して愛して愛してやまない、私たちが彼らを結局殺しているのです



特定の子と一緒に暮らす、それはただのエゴです
愛情はエゴです
それ以上でもそれ以下でもありません
上で、生命の選別を容認したのなら
選別に漏れた子たちが死に行くのに目をそらしてやり過ごす、
それが、特定の子と暮らすと言う選択と同義になります


もあもあさんを引き取る時に、私は他の子を否定しました
もあもあさんだけを容認したのです
どの子も助かりたいのに、幸せになりたいのにね

そんな、後ろめたさを消したいがゆえの保護活動は
やっぱり自分の気持ちをおさめたいだけのエゴでしかありません
野良なんか殺しちゃえ、と言う人のエゴとどう違うのでしょう



そして、ここで「違う」と言い切れる人たちの欺瞞と妄信が、私は恐ろしい
気持ちの悪い宗教に毒されているように見えてしまうのです




けっきょく、ぐだぐだな考えになって
今日もただ、ご飯をあげに行くだけの私でした・・・・



おちゃびん2号さん、大きくなって今日も元気
相変わらず、人には懐かないシトです・・・・

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黒アメショ1号2号
更に傍若無人にふてぶてしく、要求だけする高飛車にゃんこにw


新顔さんもいました
また誰か捨てたの~~~??はあああ~~~~~↓↓↓
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理想を言えば

そこらじゅうに野良猫がいて、それが当たり前な暮らし
誰も文句を言わない、普通の暮らし
猫の粗相を迷惑と考えないのが普通なことな暮らし

人の考えが変わるのが、一番いいのだけれどね




命の選別が許されないと思うのなら
まず、飼い猫飼い犬を全面的に禁止してはどうだろう
「すべての動物を公共の命に」
・・・・・・・・・あ~~あ、言っちゃった(笑)
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by komitsuko2006 | 2008-02-11 18:59 | 生き物が生きること